
作家プロフィール:MiZ(ミィーゼット)
画家、陶芸家、書家、アクセサリー作家。
様々な画材や画法を使い分けて描く独創的な絵画が魅力の多分野アーティスト。
作品には、混沌とした世界への憂い、少女のような無垢な歓び、対象物の命の力強さなど、純粋で鋭い視点が込められている。1歳の頃から両親のネグレクトにより祖父母の元で多くの時間を過ごす。5歳で自殺願望を持ち、高校生の頃から自殺未遂を繰り返す。成人してから発達障害と診断され、依存症や自傷による入退院を繰り返しながらも、少しずつ自分を癒し、生きることに向き合っている。
MiZの物語
星のままに⽣きていきたい・・・ーーー
どうしたら
この⽣きづらさを
なくせるの・・・?
ーーー
両親は、私の⼦どもの頃の思い出を語れない。
1才で弟が⽣まれてからは、私は祖⽗⺟の家で過ごすようになった。
私も⾝体が弱かったけど、もっと⾝体が弱い弟の世話で、⺟は⼿いっぱいだった。
⻑男である弟は⼤事にされ、私は同じ病気の時でもまともに看病もされなかった。
「あなたが⼥の⼦だとわかった時、下そうと思ったのよ。」
⺟は、まだ幼い私に向かってそんなことを平気で⾔える⼈だった。
初めて死にたいと思ったのは5才の時。
時4才だった弟も、⼤事にされていたはずなのに両親を嫌っていた。
私が「死にたい」と⾔ったら、弟は両親を「ころしたい」と⾔った。
ーーー
祖⽗⺟の家で過ごすことが多かったものの、両親は私に「普通以上」で「ちゃんとする」ことを求めてきた。
「普通って?」
「ちゃんとって?」
その基準も分からないまま、そうでなければならないという強迫観念が私の中で育っていった。 初めて死のうとしたのは、⾼校⽣の時だった。
何度⾃殺未遂をしたかは、覚えていない。
調べられる⾃殺⽅法は、全部試した。
⾃殺に失敗する度に、死ぬこともできない⾃分への否定を強めていた。
死ぬことばかり考えてきた⼈⽣に、転機が訪れたのは26才の頃。
死ぬことに失敗して病院に運ばれた私に、主治医の先⽣が⾔った。
「これだけのことしたってことは、死ぬことはもうできるわ。
そこまでできるなら、そろそろ⽣きるために努⼒せーや。」
⽣きるための努⼒?
死にたい死にたいと⼦どもの頃から思い続けていた私には、その発想がまったくなかったことに気づいた。 新鮮だった。
「⽣きてみよう」と思った。
ーーー
⾃分を否定して責めながら⽣きていた私に、先⽣は「君のせいじゃない。親のせいだ。」と教えてくれた。 そして強制的に、親と引き離してくれた。
何か⾃信になる資格を取ることを勧められ、保育⼠を取ることにした。
資格は取ったけど、勉強を進めるうちに⾃分の中に⽣まれた疑問や⽭盾を拭えなくなって、保育⼠として働いた ことはない。
だけど、⼦どもの権利や⼼理学を学んだことで、⼦ども時代の⾃分を客観的に知ることができた。 私にはなかったものが、いろいろあったんだ。
その頃は病院の寮で暮らしていて、絵を描いたり、書道をしたりしていた。
絵を描くことは、⼦どもの頃から好きだった。
芸術肌だった祖⽗が、絵や⼯作をよく教えてくれた。
⺟からは、
「あなたは紙と鉛筆を渡しておけば⼤⼈しくしてくれてた。」
と⾔われて悲しかったけど、祖⽗は私の芸術センスを喜んでくれていると、⼦どもながらに感じていた。
休学を繰り返しながら芸⼤に通ったけど、厳しい課題に追われ、栄養失調で倒れてばかりいた。
でもやっぱり、私にとっては創作を通して⾃分を表現することが、⽣きることに直結していると思う。
ーーー
30才くらいで寮を出て⼀⼈暮らしを始め、就労⽀援の作業所に通い始めた。
同じ頃、発達検査を受けて発達障害だと分かった。
⼈とは理解の仕⽅が違うらしい。
初めはショックだったけど、少しずつ受け⽌められるようになった。
「普通にならなければ」と思い続けてきたのに、「普通にはなれません」とはっきり⾔われた。 そのことを⾃分で受容できたことで、少し肩の荷が下りた気がしている。
しばらくして、同じように苦しさの中を⽣きていた親友が2⼈、続けてこの世を去った。
自分も悲しかったし、周囲の⼈が悲しみ苦しむ姿を⾒て、⾃殺はしてはいけないと今は思ってる。 それでも、カタチにも⾔葉にもできない苦しさが襲ってくる度に、⾃分を傷つけてしまう。 そんな時は、1⼈暮らしで誰も⾒る⼈がいないから、しばらく⼊院。
⼊退院を繰り返しながら、⽣きるための努⼒を、してみてる。
⾃分の中から生まれてくる、
純粋も、混沌も。
光に⼿を伸ばすように、
闇を抱きしめるように、。
ひとつ、ひとつ、表現してみる。
今を⽣きながら
私らしさを、
愛してみてる